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稲むらの火・・・次期総理が決まった日に

さきほど、民主党代表が(即総理大臣というのがねぇ・・・)決まりました。
だれが、どこの党が、とかいうのでなくこの日に伝えたいことがあります。
私が知らなかっただけで皆さんご存知かもしれないけれど・・・
忘れるのがうまくなったこのごろ自身が忘れないためにもブログに、と思い立ちました。
 
「JINー仁」の中で、ペニシリン製造のために
工場と職人を提供してくれたしょうゆ業者が出てきました。
ドラマでは濱口儀兵衛という名のしょうゆ業者、実は実存した人物で、
ヤマサ醤油の7代目、その名は濱口梧陵(ごりょう)。
ペニシリンではなくコレラの薬の製造所が焼けたときに300両を寄付し尽力した人です。
1820年紀州和歌山県)に生まれ江戸で学び、ヤマサ本店の紀州広村と、
支店であり江戸への基点でもあった銚子で商売に励み後政治家にもなった人です。
 
その梧陵35歳のとき、安政の南海地震のときに大活躍したのですが、
その記録をラフカディオ・ハーン小泉八雲)が残していました。
海外にも「A LIVING GOD」として紹介され、教科書にも載ったそうです。
国内でも昭和22年までは小学校の国語の教科書に載っていたそうです。
その後教科書から消えましたが、今年から5年生の教科書に復活しました。
教科書では子供にわかりやすいように多少話を変えてありますが、
実際の彼の行動の中には私たちのテキストとなるべきことが山ほど載っています。
 
1854年は東海・南海・九州沿岸の海と江戸をはじめ内陸と、
1年間に合わせて5回の震度6級の大地震に見舞われました。
巨大地震は連動する(ことがある)・・・これは今、心しておかねばと思います。
 
地震の後、梧陵は海辺に出ます。
水が引き、沖合いから大砲のような音がするのに気づいた梧陵は、
村人に津波が来ることを知らせます。
彼は膨大な書物を読んでいました。正しい知識は身を助けます。
 
強靭な若者を集め皆で、高台の神社への避難を触れて回りますが、
夜が迫り神社の方向もわからず立ち往生している人々のために、
当時貴重だった稲むらに火をつけて回ります。照明です。
その火を頼りに2000名の村人が神社に逃れ死者30名、97%の人が助かりました。
梧陵はすぐに炊き出しをはじめ、仮設住宅を建設しました。
リーダーの迅速かつ的確な判断が多くの人命を救います
 
堤防
津波に飲まれ荒れ果てた村を見て、梧陵は堤防建設を思い立ちます。
「100年後の人々のために」という思いで、紀州藩に堤防建設の許可だけを取り
実際の建設やその費用はすべて梧陵が捻出しました。
遠距離にあった銚子支店が大いに貢献しました。
遠くに姉妹都市、改めてその必要を感じます。
地震の3月後に着工、長さ900m幅20m高さ4.5mの堤防が、
なんと4年後には完成、後に昭和の南海地震の際に現在の広川町を救いました。
工事には地元の人々を使いました。
女・子供もともに働き、全員に賃金を払いました。
津波により荒れた村から離散しようとする人をつなぎとめ、
工事に携わることで萎えた心の復興にもなりました。
 
さらに、この堤防の上には松の木が植えられました。
堤防を越える津波に流された人々が引っかかり引き波にさらわれないように。
また堤防上の歩道脇にはずらっとハゼの木を植えました。
ろうそくの原料として高価で売れるハゼの実は堤防の補修費に使えるからです。
最悪の場合や、後々のことまで想定していました。
 
200年近く前に生まれた濱口梧陵の偉業、今の政治家も知っているのかな?
もちろんしょうゆ業者としての豊かな財力も大きかったこととは思います。
でも、確か民主党には経済的に恐ろしく豊かなぼっちゃんたちがいたはず・・・
濱口梧陵を見習ってポ~ンと・・・なんてことになったら株が上がるのに。
梧陵から堤防建設のために「金送れ」とたびたび催促された銚子支店、
その心意気に打たれ、それまでで最大量のしょうゆを製造し売りまくったそうです。
安政の南海地震から6年後、堤防の上で楽しそうに宴を催す村人の笑顔の絵が残っています。