親御さんは安心して塾に行かせていたのでしょうに・・・
殺された女の子のこれから続くはずだった長い人生を思いながら、
心から冥福を祈る。
新聞などを読むとまたかと思うことがある。
これまでの色々な事件で、
被害者は勿論、加害者の周りの人たちの談に、
「挨拶もきちんとできるいい人でした。」という言葉をよく聞く。
ときには「優しい人でした。」という言葉も。
今回の加害者も大学での事件はあったものの、
普通の人として、優しい塾の先生として過ごしていた。
一見普通の人の中に潜む、普通でない何か。
どうやってそれは育っていくものなのか。
私の塾に来ている1人の女子生徒は、
礼儀正しく近所の評判もいい。
その子がある日言っていた。
「大人なんて簡単。
挨拶さえきちんとしてハキハキ受け答えすれば『いい子』ってことになるんだから。
私は小さいときからそれを知っている。」
そんなことを思う子どもは珍しくないかもしれない。
露悪的に口に出しただけかもしれない。
彼女は犬猫が怖くもあり大嫌い。
先週の彼女の言葉。
「先生の家の犬も早く死ぬといい。(ちょっと言葉はちがったけれど)
おばあちゃんの家の犬が死んだときもすごくうれしかった。
道路で死んでいる猫や犬を見ると快感を覚えてしばらくじっと見ている。
ああ、これで1匹減ったって。」
彼女は読書家で「葉っぱのフレディ」を読んでは感動し、
お気に入りの小説の登場人物が死んだと言ってはいたく悲しがる。
子どもが成長する課程での精神状態を安定させることのむづかしさや、
人間の中に潜む多面性・複雑さを示すのに充分すぎるほどの例をいつも彼女は見せてくれる。
今回の加害者の年齢までも含め、子どもがらみのニュースを見聞きするとき、
彼女を、そして塾の子どもたちをいつも思う。
誰の心にも、もしかしたら潜んでいるのかもしれない狂気。
そんな狂気に自分自身を空け渡してしまわないために、
やはり幼児期からの接し方が重要なのではと思う。
健全な精神が育つために充分な愛情をそそぎ、
「自由」という言葉の前に知るべき規範を、
しっかり植え付けなければいけないのではないだろうか。
これからわかってくるであろう犯人の人間性・生い立ちは
いったいどんなものなのだろうか。